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一応性表現を使う必要があるかもしれないので、このカテゴリーを選びました。

女性らしくという言い方が、男女差別のように聞こえてくることがあります。
その気持ちは私にもよく分かります。
馬鹿にされているような、どことなく個性を否定されているような気もします。

本当に女性らしくするというのはどういうことでしょうね。

口調を丁寧に敬語ばかり言う人でしょうか?
お化粧をしている人でしょうか?
ズボンをはかない人でしょうか?
料理など家事が趣味でよくやっている人でしょうか?
男性から距離をとる人でしょうか?

実際のこと、定義しにくいものです。
上記に挙げたものは、全くといっていいくらい違うと私は断言できます。

ボーイッシュならそれで、男勝りならそれで、口が悪くてガサツならそれでもいいんです。
恋をした相手が女でもいいのです。
女らしさを求められるのはそういうことではありません。
生きる上で、女性として産まれてしまった以上、その責任を果たさなければならないのです。
何より、自分が女性である自覚が必要なのですが、それをどう表現するかが難しいものですね。
…なんて、表現なんてしなくていいんですよ。
つじつまが合わないことを言っているようですが、女性は「らしく」も何も、本当に女性なのです。
女性を感じさせられるような服も髪型もしていなくとも、身体はちゃんとした女性なのです。

述べました通り、自覚していない人に女性らしさがないということはあり得ません。
必ずふとしたところに、”女”というものが表れるのです。
無理に女性らしくしようと思わせる必要もありません。
女性らしくないと思われるものが好きでも全然構わないのです。

ただ、女性は一人の男性のために尽くさなければなりません。
お互い尽くすことが大切なのですが、特に女性は男性を癒してあげなければならない立場にあります。
抱きしめられたのなら、抱きしめ返してあげましょう。

そして、母なる人間であることもお忘れなく。
子供が産まれ、夫が一日中育てるのであっても、子どもは母親の愛情がなければ生きていけません。
優しく見守ることは耐えることにもつながるのですが、女性には忍耐が必要だと思います。
物事を受け身になって考えたり、人を癒す能力を授かっているのです。

女性本来にあるもの、男性にはない特別なもの。
大切にいかしましょうね。

ただ、だからといって異性を誘惑しすぎるのもほどほどにしましょう。
それも一種のセクシャルハラスメントですよ。
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愛だとか形づけるものではないと、そのような意味の発言がしばしばうかがえます。
私が思うには、それはそうすることで上手くいかなくなったりドロ沼になったりすることへの構えなのかと受け取ることもできます。
 
愛には形があって当然なのです。
二人がお互いを大事に思い合って愛し合ったら、そこから愛は誕生するんです。
愛は放ったらかしにしてはいけない、二人で大事に大事に温めなければならないのです。
育んであげることで愛は深いものとなって、信頼関係をも支えてくれます。
そんな大切で、子供のように愛しく育て上げたものにたいして形がないだなんて。
だから私は、関係に形づけないことだという言葉は好ましくないと思っています。
 
かといって、自然に形をつければいいと甘く考えていいものではありません。
お互い、相手の愛情も自分のものも大事に温めて、かけがえのないものにしなければならないのです。
関係が壊れる時のことを考えている時点で、二人の関係は成り立たずとっくに壊れていることになってるんです。
育むものも育めないから、大切に思えなかったり思われなかったりするんです。
 
ここでまた大事なことを言いたいとすれば一つあります。
愛すること、愛が壊れることに恐れないでください。
そのときの苦しみは辛くて立ち直れるかも保証できないものです。
しかし、そのときに備えて逃げ回っているのが一番いけないでしょう。
世渡りなどが上手くなっても、それはただ知識が入っただけにしかすぎません。
人生を渡る上で大切な、勇気や気力が減っていくばかりで、臆病になるばかりです。
なかなか難しいことですが、逃げないことが肝心なのです。
傷ついて心がボロボロになっても、愛が壊れて生きがいをなくしてしまっても。
新しい人生へのスタートと考えて、大切なものを生み出すことが、それからのあなた方のすべきことです。
 
愛は目には見えなくとも感じることができます。
それでもやはり、見えないとなれば不安ですね。
信じるだけではいけません。
大切に思わなければならないのです。
愛は生きているのなら、私達のように愛情を欲しているんです。
そして、愛情に飢えると弱くモロくなってしまいます。
想いが通じ合ったら終わりと、達成感で終わらせず、そこから前へ一歩ずつ踏み出していってください。
 
 
 
皆様の間では、物をもらい、あたえるというやり取りを多々行っていることでしょう。
これは、いかなる関係においても重要なことで、これにより深めていくことになるかと思われます。

しかし、それはどうしてですか?なぜ、物をあげるとそのような理屈が誕生するのでしょうか?

今回はそのこともまじえ、書き記したいと思います。
そもそも、あなた方は人に何かを与える時に何を考えているでしょうか?
世間体、真心、ざっとわけるとこのようなものがほとんどでしょうね。純粋にその人の喜ぶ顔が見たいというのや、お世話になっている人との縁を持続するため、などのように。
目的はいずれの理由でも全然問題ないのです。ただ、皆様の中でもある誤解をほんのちょっとでもなさっている方も、少なくはないのではないかと不安なのです。
というのは、「物をあげたからこの人からお礼の物が返ってきて当然だ」
「もらったものが気に入らなかったからお礼の言葉なんて送らなくていい」
「お礼(お返し)は物だけで十分だから、言葉なんていらないだろう」
「プレゼントをしたんだから、それについて感想をもらえて当然だ」
…等、核等するものの一つ、ほとんどの方があるかと思えます。
無論、私だって少し前まで上記のことを思うことがどういうことか、分かりませんでした。
まず、協調して言わせていただきますと…

与える側も、貰う側も、思いやりを持ちましょう

単純そうで実はそうでないのです
解説形式にしていきますと、上から番号を振って説明していきます

①確かに、礼儀上それは当然なのでしょう。
しかし、あなたの本来の目的は何でしょうか?それを考えると、お返しは強制でないはずじゃないでしょうか?
そして、もらった相手がどんな気持ちか存じていないはずです。嬉しいならともかく、もしかしたら不愉快を与えてしまうかもしれません。
物をあげる際、相手に物を受け取ってもらうのです。だから、受け取ってもらうことに感謝を気持ちと嬉しさを持たなければならないのです。
相手に物を持たせるのは、相手の手をわずらわせることと、中には解釈する方もいらっしゃるでしょう。それはきっと、与える方からの思いやりをふまえていっていることもあるかもしれませんね。
②それは大きな間違いですよ。貰う側のあなたにも、相手を思いやる気持ちがなければなりません。
相手がどのような気持ちで与えたとしても、相手の視野の中に自分が存在することに対する感謝を持たなければならないのです。
それが例え、親しい友人同士、恋人同士、家族間でもあっても、これは当たり前とされるくらいなのです。
③お言葉ですが、それは相手に対して喧嘩を売っている行為とみなされる場合があります。
というのは、気持の無さが明らかに分かり、またはそうなのだと誤解されるからです。
物は、言葉の後にくるものです。感謝の言葉があってこその贈り物です。
また、他に誤解されるパターンは数々あり、相手に不安を感じさせることもあります。
たかが誤解と思うかもしれませんが、あなたを気遣うあまりや、自信の無さに不安が生じることだってあるのです。
無論これはお礼・お返しいずれにも核等するものです。
④①と被っているかもしれませんが、案外少し違うところもあるので載せました。
仮に、強引にどうだったかと聞かれても、うまく答えるのに相手が困ります。
本当はさほど嬉しいものでなくとも、あなたの心遣いや礼儀を無下にしてはならないとよく考えた上で、相手はコメントを下します
あなたもそうではないでしょうか?適当なこといえるわけがなく、同じ立場に追いやられてみて迷惑を感じるのではないでしょうか?
また、ついでだから言っておきたいのですが、相手から感想とお礼の言葉をもらえたのならそれは最高のパターンだと思わなければなりません。
ああ、そうですか。といわんばかりに、流しては③のように誤解をさせてしまいますよ。

どうでしょうか?①~④を見て、うなずいていただけましたか?
いずれのパターンも、思いやりと自重が足りないように思われます。
たかが習慣の一部と軽く見ないで、このように考えてみると物の受け渡しだって慎重に行わなければならないでしょう
また、余談を言ってしまうと、一年が過ぎるたび、③と④あるいは①と③がセットになっているような方も多く見受けられます
相手が中心であり、自分は腰を低くしなければならないことを忘れていませんか?
おごり高ぶる態度がどんな関係においても厳禁とされることをもっと心得て下さい。

さまざまなシーンで使われる、物の受け渡しでした。
私が思うところ、思いやりを持っての行為であるからこそ相手と自分の関係より良いものへと変わっていくのでしょうね。
仮に、最初から不純な行為では、習慣として認められるはずもなかったでしょう。
決して、自分の都合を優先させるようのないよう、今後とも注意を払ってください。
これが意外と、相手に悟られることがあり、それが直感であっても馬鹿には出来ないのです。


大学生活初の風をひきました。
喉は乾燥して飲み物は手放せないし、咳ばかり出て物事に集中できません。大事な専門分野の小テストを控えて、宿題が多いというのに、最悪の状態です。
こんな時、誰かお皿を洗ってくれたら、とか。誰か買い物に行ってくれたら、とか。
つまるところ、ないものねだりと、無いものが無いことに対する不便意識ですね。
家にいる頃は、母が看病をしてくれたり、薬が家に置いてあったり。便利な空間に自分がいたから、どことなく理由どうこうでなく、心から落ち着いていられました。
しかし、自分の今の状況により、不安は大きくなっていくばかりで、そこに加えて風邪まで引いてしまいました。こういう時は逆に、理由もなく不安が大きくなっていく一方です。
まずは、何かしらの方法を見つけて不安を取り除くのが一番いい方法かもしれません。
しかし、そう簡単なことではなく、物理的時間に余裕のない私には今回それができません。
大丈夫だと、意味もなく思えたらどんなに楽だろうと思います。人事で言うのは簡単でも、自分のこととなるとそうはいかないものですね。
この文を読んでいる方は、単純めいたことと思って当然かもしれません。
しかし、とりあえず大変という一言で表そうにも、その本人にとって中身が深すぎるのです。精神的苦痛が次から次へと与えられて、山積みになっていくとどうしたら良いかわからなくなってしまうのです。
こういう時、山積みの状態でも冷静になって落ち着いて物事を考えられたらいいと思います。
また、たまりにたまった焦燥を、誰か取り除いてくれる人がいたらと、またもやないものねだりをしました。

人から見て、不安そうな人は突き放すようにしか慰めの言葉を与えられません。もちろんそれは、私だって同じだと思います。
自分が不安になった時にこう思います。自分がそうなってみて、どんなに辛いかをふまえて、慰めてあげなきゃと。
しかし、不安が過ぎてしまった時ならなおさら、それは難しいもので、一時の反省もむなしく消えてしまいます。
何度も何度も、私はこのように思ってきました。この文を打っている今、いつになったらこれが達成できるのだろうと、思ってしまいます。
ただ、あくまで私の場合ですが、それができないなら別な方法で不安を和らげることをしてきました。
愚痴と、不安の気持ちを、聞いてあげることです。言っている意味が理解できなくとも、吐き出させることでその人のため込んだものが出て行ってくれるのです。
この愚痴のことについてはまた別な機会に詳しくお話したいと思いますが、私からお願いがあります。愚痴を聞いてくれる人の話も聞いてあげて下さい。そうすれば、その人は更にあなたに親身になってくれるはずです。

今回は、オチがまとまっていなく、自分でも何を書いているのかわからなくなってしまいました。恥ずかしながら。
変な風邪が流行っているようですから、皆さんも気をつけて下さいね。
また、引いてしまったら、またこの文を読んで不安を和らげていただければ幸いに思います。
愛は愛でも、皆同じではありません。言葉では「愛」と一くくりにされていますが、その中にはとても多くの意味をもっているのです。
大きく分けるとするなら、親が子に与える愛、友人が与える愛、恋人に与える愛、聖書に沿うと神が与える愛、など。どれを取っても意味が違いと思いませんか?
しかし、分けたもの全部に共通していえるものがあります。いずれも、愛する人は皆大切な人なのです。
愛の形は人それぞれといいますが、それだけはどなたも同じはずです。心から、つまり真心を持って、私達は大切な人と時を過ごしているのです。
 
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